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パネルディスカッション

司会:水谷長志氏
パネリスト:水嶋英治氏,安藤正人氏,中村節子氏,波多野宏之氏

水谷
 それでは,パネルディスカッションに入りたいと思います。最後のお話の中で,波多野さんが「差異の確認」というお話をされました。これは非常に重要なことだと思います。差異ということであれば,共有すべきところと異なるところ,差異というところから話を展開するに際して,一つ,かなり昔の話なのですが,約20年前,図書館学と情報学が結びついて,図書館情報学,あるいは図書館・情報学というものが生まれようとしていました。その名前を冠した大学も誕生したころに,ある先生が「情報学は雄カマキリである。図書館学,彼女,すなわち雌カマキリは,情報学を食べてしまうほどに空腹のようだ」と語られたことがあります。すなわち,図書館学と情報学の間に,非常に緊密な影響関係というか,相互介入関係があったと,その文章は語っています。私はその文章に接したとき,目からうろこが落ちるといいますか,動揺にも似た体験をしたことがあります。

 図書館情報学という歴史的に十分な時間を踏まえた学問がある。それに対して,アート・ドキュメンテーション,あるいは美術情報学,あるいは博物館情報学,そして,今まさに生まれようとするアーカイブズ学との関係を,「連続と侵犯」という言葉で形容してみたいと思います。

 実は,この「連続と侵犯」という言葉は,私ども東京国立近代美術館が昨年開いた「現代美術への視点」という展覧会のタイトルです。それは,美術の歴史に連なりつつ,また,そこへの侵犯を画策するというような現代美術の作品を集めた展覧会でした。連なりつつ,また,そこへの侵犯を画する,すなわち「連続と侵犯」である。このキーワードは,魅力的なタイトルだったと思います。

 どういうことかといいますと,歴史的な研究というところでは,「連続」と言えば,必ずその後に常套句のように「断絶」という言葉が続きます。「連続と断絶」といフレーズが,いろいろな局面で現れるのですが,仮に十分な歴史的背景を持つ学問,これは図書館学,図書館情報学と言ってもいいと思うのですが,それと隣接しながら,あるいはそこに介入する可能性をはらむ。まさに,美術情報学,あるいは博物館情報学,アーカイブズ学は,図書館情報学との関係において,隣接しながら図書館情報学へ介入する可能性を十分持っている。そして,教示的に,今,存在しようとしています。そうすると,ある歴史的厚みを持つ図書館学,あるいは図書館情報学と,これら情報をめぐる新興の学問との関係を形容するときに,今,「連続と侵犯」というフレーズで議論を始めたいと思います。

 「連続と侵犯」という言い方をしたとき,先ほど言いましたように,その背景にあるのは,相互の学問の間にある共有と差異ということだと思います。共有と差異を踏まえながら,先ほど波多野さんも言われましたが,旺盛な議論が展開されるべきではないかと考えて,限られた時間ですが,この辺のところからパネルディスカッションに入りたいと思います。

 まず,私のほうからパネリストの方々に質問をするという形で,一巡させていただきたいと思います。まず,中村さんにお願いしたいのは,今日(こんにち),ブリヂストン美術館のワンパーソン・ライブラリという実際の現場において,図書館情報学というものは,中村さんもかつて学ばれたと思うのですが,どのように生きているのか,活用されているのか。逆に,かつて学んだ図書館情報学では補完できない点は何なのか。もう一つ,図書館情報学ではない関係諸学のうちで,何が最も実務に肝要と思われているのか。そのようなことについて,実務のレベルから簡単にお話をお願いしたいと思います。

中村
 何が役立っているかということですが,現実的にライブラリを運営していますので,ルーティンワークという面では,すべてが役立っています。それとは別に,今日もお話ししましたように,ライブラリのことだけではなく,美術館の一スタッフとして,いろいろな業務を同時にこなしていくという側面が,ワンパーソン・ライブラリの場合にはあるわけです。そのときに,学芸員からも相談を受けるのは,例えばデータの読み方やデータの記述の仕方などです。いろいろな種類の資料の目録を取るという勉強をしたことが役立っていると思います。今の図書館情報学では,コンピュータが非常に発達して,自分で実際にさまざまな種類の資料を手に取って,自分の力で読み込んで,データを取っていくというような授業がどうなっているのかということはわかりませんが,そういう経験は非常に役に立つということです。

 それから,レファレンスということを,図書館情報学を通して知るわけですが,モノの調べ方,特にさまざまなツールを使って,どう調べるのか。あるいは,どこにどのような情報が所蔵されているのか。そういう情報の調べ方は,業務上,非常に役に立っています。それからもう一つ,データベースをつくる,あるいは索引をつくるという経験は,ものの考え方として役立っています。さまざまな業務の中で何をどうすればいいのか,どう整理すればいいのかという意見を求められるとき,そうした発想といいますか,情報やモノの組織化や整理という観点から意見を述べやすいと思います。

 図書館情報学では歯が立たないのは,主題知識です。美術館においては美術史ということです。これは図書館情報学とは別に,母体である美術館に勤める以上は,美術史の勉強も自分の力で行っていかなければならないと思います。しかし,美術史のほうからすれば,図書館情報学を学ぶことは非常に有用だと思います。美術史家は独特のものの調べ方をしますが,しかし,情報の収集や整理,組織化,どう使えるようにすれば良いかという図書館情報学の技術を学べば,美術史家の方はもっとよい仕事ができるのではないかと思います。

 それから,関連する学問の中で,ライブラリアンとして必要だと痛感するのは,何といっても情報処理技術です。コンピュータを使っていますので,情報の検索だけではなく,いかに情報を提供するかということについてどこの美術館でも関心を持っています。美術館というのは,自分たちのところで日々,絶えず調査研究をしながら,生の美術情報をつくっているわけです。その情報を蓄積して,どう加工して発信していくか。そのためには,情報処理技術がどうしても必要になります。もう一つは,博物館学です。ライブラリアンとして来た場合,特に学芸員資格というものがないと,美術館,博物館の中心である所蔵品にかかわることがなかなか難しいという側面があります。ですから,美術館で働いてみたいという意欲を持たれる方は,少なくとも学芸員資格を取るということが,今後は必要になるだろうと思います。

水谷
 どうもありがとうございました。もう一つお伺いしたかったのですが,逆に美術図書館の現場から,現状の図書館情報学へ提案すべきことはありませんか。

中村
 先ほども少しお話ししたことですが,図書館といっても,さまざまな現場があります。それから,その現場というのは,今日においては激しい環境の変化がありますので,要求される能力や知識が日々,変わっているということです。ですから,現場と教育をつなぐという工夫をしていただけると,勉強される学生さんのためにもなるのではないかと思います。

水谷
 ありがとうございました。次に波多野さんにお伺いしたいと思います。波多野さんは今年の3月まで国立西洋美術館におられて,西洋美術館研究資料情報センターを立ち上げられました。その立ち上げに際しては,いろいろな課題があったと思いますが,そのときに実感した,国立西洋美術館研究資料情報センターの立ち上げと図書館情報学の有用性,あるいはその限界というものがもしありましたら,お願いします。

波多野
  今,名称は「国立西洋美術館研究資料センター」で,「情報」は抜けてしまったのです。私は付けたかったのですが,学芸課内で,「情報」がつくのは嫌だという人が多数を占めました。また現実には,私は「ライブラリー」という名前も付けたくなかった。「少なくとも○○研究センターにしたい。ライブラリーはだめだ」と申しました。こう言うと語弊があるかもしれませんが,提供するものは,いわゆるライブラリーという概念でとらえられるものではない。作品についての記録も写真もデータベースも,さまざまなメディアのものを提供する。そのようなものであるべきだということで,「ライブラリー」は付けたくなかった。こういうことが一つあります。しかし,実態はというといろいろな制約があり,今サービスをしているのはライブラリーのサービスです。マイクロ資料やCD-ROMなどはありますが,厳密にはそれだけしか動き得ていません。ただ,望ましいと思っているのは,もっと広げたサービスです。

 例えばアーカイブについて言いますと,ここはル・コルビュジエと松方コレクションの二つが目玉だろうと思います。そうしますと,ル・コルビュジエも本当にオリジナルのアーカイブ資料はそんなにないのですが,設計図面,改修の図面を含めて,関係者――非常にたくさんの建築の学生さんをはじめとして,「見学したい」「資料を見たい」ということがあります。ですから,複製でも何でもいいので,とにかく公開のスペースにル・コルビュジエ・コーナーをつくって関係資料を置き,自由に手にとって見ることができるようにしたい。あるいは,松方コレクションの寄贈・返還にともなう美術館の開設については,オリジナル資料がある。あるということを私は最近知ったのですが,事務部門の人がずっと持っていて,「そんなものはないですよ」という話を聞いていたのですが,実はあった。その20年以上いた人が転勤になり,「これを研究資料センターのほうに置いておいてください」ということで,私は初めてオリジナルを見たのですが,そういうものが実際にはある。それはもちろん,軽々に「どなたでも」とはいかないでしょうが,ル・コルビュジエにしろ,松方コレクション関連にしろ,関係資料をさまざまな形で提供していく。そういうものも研究資料センターの中に含めたいという考えはあるのですが,現実にはそこまで行っていません。

 そういう意味で,ライブラリーの機能を果たすということでいえば,閲覧室,書庫の設計から遡及入力,あるいは閲覧サービスのやり方などにおいて,図書館情報学の知識が役立っていることは疑いようのないことです。しかしながら,今言ったように,古い青焼きの設計図面や文書,それから作品ファイル――特にフランスでドキュマンタリスト(英   ドキュメンタリスト)という名称で呼ばれる専門職が形作っている一つの業務分野があります。どこの美術館に行っても,きちんとしたところではライブラリーがあり,それとは別にサントル・ド・ドキュマンタシオン(Centre de documentation)というセクションがある。ライブラリアンとドキュメンタリストは全く別の教育を受けているわけです。

 どちらかというと,ドキュメンタリストはキュレーターと一緒になって仕事をしており,イタリア美術専門のドキュメンタリスト,フランス美術専門のドキュメンタリストというような形で専門性を持ち,非常に主題の知識が豊富です。その上で,情報処理の技術も身につける。そういう人が配置されているわけです。ですから,あるべき情報資料センターは,ライブラリーとドキュマンタシオンとアーカイブとを合わせたようなものであり,それが当初,私が「西洋美術研究情報資料センター」として目指したものであったはずなのです。しかし,さまざまな利害関係もあるし,予算の制限もあったでしょう,諸々の要因があって,現実にできたものは今の図書館的なものである,ということです。私の後継には,美術史を学ばれた学芸系の人で,なおかつアート・ドキュメンテーション研究会の役員もやっていらっしゃる方がポストにつかれましたので,あるべき姿を是非これから展開していただきたいと思います。

水谷
 もう1点,今のお話と連続していくのですが,先ほど言われましたように,ドキュメンテーション,ドキュマンタシオンも含んだ西洋美術の研究資料センターを担っていく人材,あるいは後進について,大学,あるいは大学教育に求めるエッセンス,求める可能性ということについては,いかがでしょうか。

波多野
 私は,美術館や図書館の世界に入る前には,学芸員の資格も,司書の資格も持っていなかったのです。最初に入った武蔵野美術大学美術資料図書館では方針として,「そういう資格は無いほうがいい。司書の資格も学芸員の資格も無いほうがいい。真っさらなところで,全体的に,多様なメディアによる美術に関する情報資料を扱う人間を育てたい」ということでした。大変な卓見の持ち主が美術資料図書館のヘッドだったのです。この方のもとに3〜4年いました。その後,資格も必要だろうということで司書資格も学芸員資格も取得し,転職したりしましたが,私は武蔵野美術大学美術資料図書館での考え方は間違っていないと思います。

 私もどちらかというと図書館司書なのですが,一般論として司書は非常に固定化した資料の見方をするわけです。ですから,図書,雑誌という定型のものを定型的に扱って疑うことがない。他方,ドキュメンタリストというものは,雑誌でも,カタログでも,そこから肝心なものをチョキチョキと切り取るわけです。図版単位,論文の記事単位でこれらを一情報とみなしますので,資料のもとの形態には全くこだわらない。ですから,フランスなどのきちんとした体制の美術館では,雑誌,カタログを2部ずつ[保存用にはもう1部]買います。そして,表裏に図版があるわけですから,1部は左ページで,1部は右ページを取るなど徹底して図版レベルで情報を取り込んでいく。このような発想は,ライブラリアンにはないのです。また,それも必要とされてこなかった。

 そのようなことを考えると,全分野にわたって分かるということはなかなか難しいのですが,大学教育にしろ,大学院教育にしろ,図書館情報学はもちろん必要ですが,ドキュメンタリストに特有な視点……。そして,私が美術館に入って気がついたことなのですが,記録文書のライフサイクルという考え方が図書の世界にもないといけない……。内部で資料を使っていくわけですから,先ほど中村さんが言われたように,内部の人間に便利なように工夫してあげなければならない。資料が図書館に入ったら,非常に使いづらくなるということがある。その意味で一例として展覧会カタログをあげましょう。古いカタログ――30年前,40年前の展覧会カタログが非常に散逸しているのです。国立西洋美術館で開催した30年前,40年前のカタログが1部しかないということがある。なぜかというと,ちょっと参照したいということで,業務の中でそれを使うわけです。そして,戻すのを忘れてしまって,1部なくなり,2部なくなり,3部なくなって,とうとう1部しか残っていない。そういう現状があるのです。それはそれとして分かるのですが,それは立場を変えて,「しっかりと,20部は保存しておきましょう」というような原則を立てて目を光らせている人間がいなければ,どうしようもないわけなのです。カタログ全部に鍵をかけてしまう,ということではなく,学芸員の作業場の棚には,過去の1セットが必ずある。そのような工夫もしてあげて,利用に便利なようにする。そして一方では,きちんと保存する。どういう場で資料が使われるかということを,記録文書だけではなく,図書,雑誌についても考えていく。これは図書館情報学の考えでは,あまりないと思うのです。記録資料の流れ,ライフサイクルというようなものでしか,きちんと押さえられないことだろうと思います。

 欲張った言い方をしますが,図書館情報学,文書館学,ドキュマンタシオンなど,諸々のものを,少し浅くなるかもしれませんが,全般的にやって,美術史の主題知識――西洋,日本などいろいろありますので――それぞれの専門のところでより深い知識を得る。それは学部教育でもある程度できる。大学院教育では,現場に即したより専門的な教育を施す……。フランスの国立文化財学院が実務経験のある人を入れているという話が,水嶋さんからもありましたが,やはり知識だけではだめだと思うのです。現場の状況を踏まえながら,より高度なものを入れていく。そして,広い視野で,それこそ文化財保存官と言われるくらいの,技術だけでなくポリシーを持った者を育てていく。これが,これから日本の大学・大学院教育で必要になってくると思います。

水谷
 どうもありがとうございました。次に移りたいと思います。「館の学問」という言葉があると思います。その典型的なものが図書館学と博物館学だったと思います。図書館学が図書館情報学になった。それとは,博物館情報学は若干異なると思うのですが,水嶋さんが展開されようとしている博物館情報学と図書館情報学との関係といいますか,先ほど言いました「連続と侵犯」のような関係が想定できるのであれば,これは同じように安藤先生にもお尋ねしたいと思いますが,コメントをお願いします。

水嶋
 20数年前の話ですが,私が初めて研修を受けたときは,パンチカードというのでしょうか,検索にもならないようなものでした。どうしてこういうことをやっているのかと思ったのですが,訳もわからないので,一生懸命勉強しました。やはり外の世界から見ていますと,図書館情報学というものが,アメリカや日本の先生方を見て,うらやましいと思っていました。どうして博物館にはないのだろうということをずっと考えていますと,先ほども言いましたが,文字性,非文字性ということがまず大きな違いです。

 ところが,博物館の立場から図書館を見ていると,文字に書かれているものはうらやましいと思うのですが,その中間に古文書のようなものがあるのです。文字で書かれていて,何となく博物館資料のような歴史的なものです。そういう古文書類をどのように扱うのかということも見ていたわけです。そうすると,図書館で扱うものは,基本的に本,工業製品です。工業製品ということは,複製品で何百というように大量生産されます。そういう意味では,博物館の特徴である唯一性,オリジナル性というものが違うのだと,だんだん見えてきました。そういう意味では,文字性と非文字性,工業製品と唯一性という違いがあると思うようになりました。

 共通点ということでは,日本博物館協会が中心になってまとめた最近のレポートがあります。「対話と連携」という,共通しなければならないということと,「博物館の望ましい姿」というもので,今年の3月に出ました。これは全国30数名の博物館館長が集まってつくった,これからの政策レポートです。そこで議論して,三つのことを言いました。一つはマネジメント,一つはコレクション,一つはコミュニケーション。この三つが必要だということで,博物館界はまとまったわけです。マネジメント,コレクション,コミュニケーションは,博物館も図書館も,博物館情報学も図書館情報学も同じ共通基盤にあるのではないかと思います。

 それから,波多野先生がおっしゃいましたように,ドキュメンタリスト,ドキュマンタシオンというような概念が日本にはないのですが,私の経験を述べさせていただくと,初めてフランスの博物館に勉強に行ったとき,展覧会のチームに入れられたのです。言葉の問題など,いろいろな問題はあったのですが,とにかく展覧会を開けと言われて,広島の原爆資料館から資料を取り寄せたりして,フランスでやりました。そのときに一番感激したのは,ドキュメンタリストがスタッフとしてついてくれたのです。そして,「あれを調べたい」「これを調べたい」と言ったとき,そのドキュメンタリストがどんどん資料を出してくれるのです。「ああいう資料はありませんか」「こういう資料はありませんか」と言うと,「こういう論文があります」「こういうグラフィックがあります」「こういう絵があります」「こういう写真があります」とどんどん出してくれるのです。そのように職制がはっきりしていて,外国人でも展覧会ができたのです。そういう博物館の中でのドキュメンタリストという存在を知って,日本でも,私が幾つか博物館をつくってきたときに,職制としては認められませんが,私の下にはつけて,仕事の効率化を図りました。

 そういうことを個人的にやるのではなく,やはり体制としてやらなければならないということで,スポンサーといいますか,自治体の博物館建設事務局の人に,データベースや目録,それから一種の資料カードのようなものをつくるように提案すると,行政はぶった切りするのです。先ほど波多野先生がおっしゃったように,美術館・博物館行政の幹部クラスを養成しなければならないと思います。ですから,よその大規模美術館・博物館と,インターネットで公開されているような日本の博物館の情報を見ると,かなり底が浅いという気はします。批判ではなく,浅いからこそ,博物館情報学,図書館情報学が連携して,ある種の成果を出さなければならないのだと思います。

 それから,侵犯ということでは,少し言葉がきついかもしれませんが,他人の領域に権限を超えて行くという意味では,超えられない部分は非文字性の部分だと,私は思ってしまいます。写真や画像,モノというのは,田窪先生の話ではメッセージとキャリア,この辺をまだまだ博物館情報学は学ばなければなりませんが,図書館情報学の記述の方法,書誌情報,あるいはダブリン・コアのようなものがだんだん確立していますが,博物館情報学も図書館情報学から,そういうアイデアをかっさらってといいますか,盗んで研究していかなければならないのではないかと思います。

水谷
 どうもありがとうございました。安藤先生,アーカイブズ学と図書館情報学の関係ということで,お願いいたします。

安藤
 アーカイブズ学と図書館情報学との関係を話すためには,図書館情報学を知らなければならないので,その質問を私にするのは,不適切だと思います。私は図書館情報学をほとんど知りませんので,そういう議論をするのであれば,もっと適切な人がいるのではないかと思います。ちょうど都合のいいことに,先ほど紹介しました『アーカイブズの科学』の上巻に,図書館情報大学,現在の筑波大学の永田治樹さん,かつての国文学研究資料館の同僚でもあるのですが,「アーカイブズと図書館情報学」という論文を寄せていただいています。ぜひこれをお読みいただければと思います。

 その論文なども見せていただきながら,私としては,メタデータの話などをすればいいのかと思って,準備はしてきたのですが,やめました。先ほどの波多野先生の「古いカタログがなくなる」という話を聞いて思ったのですが,アーカイブズ学と図書館情報学,ないしは博物館学,博物館情報学も含めて,私は「連続と侵犯」という観点で話してもいいのですが,むしろアーカイブズ学が図書館情報学や博物館学にどう侵入していくかという感覚でとらえています。と申しますのも,今,波多野先生がおっしゃった「古いカタログなくなる」ということは,展示活動という,いわば博物館・美術館としての組織体の主要な組織活動の一つの成果であるわけです。もちろん,カタログができるまでには,かなりの議論があり,その議事録があり,あるいは原稿があり,草稿がありというような形で,最終的にカタログができているわけでしょう。それはまさに,アーカイブズが対象とする組織体記録で,そういうものをどのように保存し,博物館活動の中で活用していくかということが,アーカイブズ学の課題であろうと思うのです。

 図書館でももちろん同じことが言えます。今日のお話の中では,美術館のほうでは「行政文書」という言葉もあったかと思いますが,要するに,図書館や博物館の組織体としての経営記録です。それを活動の中に生かしていくということが,アーカイブズ学の課題です。それはいわば共存でもあり,差異でもあるというより,むしろその中に侵入していく。図書館情報学の中に図書館経営論という分野があるのかどうかは知りませんが,恐らく図書館経営の中に記録をどう生かすかという大きな課題があると思います。その中にアーカイブズ学を生かしていく。そういう問題ではないかと思います。博物館学でも同じです。

 これは一つの議論の仕方で,もう一つ全く別の問題として,例えば文化遺産の幾つかのジャンルとして,図書があり,文書があり,古文書があり,モノがある。図書は図書館だ,モノは博物館だ,古文書はアーカイブズだという言い方での,三つの学の関連性の議論の仕方もあると思います。時間が時間ですので,今日はそれはさておいて,今のような観点で,アーカイブズ学がいかに他の諸学に使い得るかという観点でも考えていただきたいと少し思いました。

 ちなみに,アーカイブズ学は,水嶋さんのほうからも「今まさに生まれつつある」とご紹介されましたが,日本ではもちろんそうです。しかし,世界的に見るとそうではなく,長い伝統があります。諸外国においては,それぞれの国,それぞれの地域において,アーカイブズ学と図書館学,博物館学との長い,ある意味での葛藤……。それこそ「連続と侵犯」の長い歴史があるのだろうと思います。それについてきちんと学ぶということも,今,生まれつつある日本のアーカイブズ学の大きな課題だと思います。ですから,私たちとしてはその辺も学びつつ,紹介していきたいと思うし,恐らく皆様方,図書館情報学,あるいは博物館情報学についての諸外国の研究状況を見ていく中で,それぞれの地域,国におけるアーカイブズ学との葛藤や協力関係が見えてくるのだと思います。そういうことをぜひ我々にも紹介していただきたい。そういう意味での協力関係が重要だと思います。これはアートから来た青年として,お兄さん方,お姉さん方へぜひお願いしておきたい点だと思っています。

水谷
 どうもありがとうございました。今,安藤先生が言われたアーカイブズ学の課題,すなわち,ミュージアム,あるいは私ども美術館の本当の課題と非常に重なり,イコールではないかと思いました。

 もう一巡,次のようなテーマで皆様のご意見を伺いたいと思います。非常に現実的な話に入りたいと思います。「美術館・博物館,文書館の情報専門職制の開発」,開発ということは,最終的にポストを獲得する。確実な人員配置の可能性を高めていかなければ,なかなかことは進んでいかないわけですが,ポスト獲得の可能性を高めるための戦略。今日,すでに4人の方々は,この点について十分に触れられていますが,もう一度確認をしたいということで,ポスト獲得の可能性を高めるための戦略に必要な技能,社会的な責任,そして,業務成果の評価をどう社会的に認知させるか。それについて,特に,今,動こうとしている文書館の動向から,続けてですが,安藤先生にコメントしていただきたいと思います。

安藤
 今日の私の話の中でも幾つか紹介しましたように,日本においては実際上,アーキビストという職域はまだ成立していません。自称アーキビストだと言えば,みんなアーキビストだということになる状態が長らく続いています。文書館の世界のことを知らない方のために申し上げると,自治体の例では,今,29ぐらいの都道府県に公文書館・文書館がありますが,そこでアーキビスト的な仕事をしている人たちは……。あるいは教育委員会系の文書館では,高校の歴史の先生がたまたまそこに配置されて,2年間ほどいて,また学校の現場に帰っていくという人である。あるいは,知事部局に属している公文書館であれば,昨日までは税金を取っていた人がたまたまそこに配属されて,そういう仕事をやっている。2,3年たつと,また別の部局に動いていく。今,そういう状況の中で,日本のアーカイブズは動いているわけです。もちろん,そうではなく,そういうところに10年,20年と勤められて,事実上の専門職として活躍されている方もいますが,それは非常に少数です。

 そういう状況の中で,日本においてアーキビストをどうつくっていくかという,まさにプリミティブな段階にあるわけです。一番問題なのは,今,情報社会で大きく変化していく中で,これからのアーキビストというものを日本の中でつくっていく際に,一体何をする仕事なのかということを我々自身がもっと突き詰めて考え,それを社会一般にわかりやすく説明するということが何よりも重要だと思います。今,全史料協を初め,日本の文書館界の中で一番大きな問題になっているのは,その点です。伝統的な文化財保存職的な,もう少しはっきり言えば,歴史的な古文書を担当するアーキビストという,一つの伝統的なイメージがあります。それに対して,いわゆる情報専門職という言い方でいうと,現代の公文書を中心とする新しい情報を扱う情報専門職としてのアーキビスト。この二つの関係が,一体どういうことになっていくのか。むしろ,別々の専門職として養成したほうがいいのではないかという意見さえあり,そういうところの議論がやや混乱しているわけです。これは日本だけではなく,恐らく世界でも大きく動いている状況だと思います。

 しかし,そこをきちんと整理していかないと,これからアーキビストという仕事をどのように日本に定着させていくのか……。やっている本人がわからないのに,一般の人たちにわかるわけがないのです。さらに,それに輪をかけて,最近,IT専門職の一つとしてデジタル・アーカイブズという言われ方もしています。自民党あたりで,IT戦略の一つとして,デジタル・アーキビストという,いわばIT専門職という一つのイメージがつくられてきており,その養成課程が実現しそうな勢いになってきています。そうなりますと,いよいよ「アーキビスト」という言葉だけが先行して,その本質が忘れ去られてしまう,わからなくなってくる。そういう状況の中で,やはりアーキビスト像をどうつくっていくかということが,非常に初期的な段階なのですが,大きな問題になっています。

 その際,図書館情報学の世界や博物館情報学の世界の中で,情報専門職という言われ方がされているときに,これまであった図書館司書,博物館学芸員と,どう違う方向を目指しているのかということをもっと明確に出していただく。そして,アーキビストという情報専門職プラス文化財専門職というような専門職のあり方を,その議論にかかわっていくことによって,私たちのアーキビスト像というものをより明確にしていきたい。そうでなく,各分野がそれぞれの専門職像というものを議論していたのでは,恐らく一般の人たちにはわかりにくい議論になっていくのだろうと思います。大学院の課程のあり方もそうです。情報専門職大学院というものが諸外国にはあるし,そういうものを目指そうという動きも一部にあると思いますが,その中で,従来の司書教育,学芸員教育がどのように変わっていくのか,どのように位置づけられていこうとしているのか。その辺のことも参考にしながら……。

 少なくとも私の考えでは,アーキビスト教育というものを単独で考えてはいけないということは明らかで,情報専門職全体の中で位置づけるということが必要だと考えています。

水嶋
 社会というか,こういうものを変えるには,二つの側面があると思います。一つは,法律で規定していかなければならないということです。もう一つは,技術です。IT技術が世界を変えていくわけですから。ここではテクニカルな面よりも,これからの専門職を考えるときには,今,いみじくも安藤先生がおっしゃるように,単独で考えてはいけないと思います。マネジメント能力が求められるのだと思います。もっと抽象的な言い方をしますと,図書館の,希少本だけに限らず,図書という文化遺産,博物館の文化遺産,文化財と古文書のようなもの,一体,何に価値があるのか,どの点に価値があるのか。そういう価値をとらえる能力といいますか,先ほど私が歴史認識と言いましたが,価値をきちんと社会に表現できる能力がこれから求められるのではないかと思います。テクニカルなものトレーニングすればいいのですが,そういう意味では,精神性というか,一体何が必要なのか,社会に対して50年先,100年先,何を残していかなければならないかという哲学を持つ人でないとだめだと思います。

 それから,果たすべき責任ということが宿題になっていたのですが,責任は次世代継承という一言で言えると思います。学生にも教えるのですが,サントリーの宣伝で「何も足さない,何も引かない」という文句があります。私はあれが非常に好きで,価値あるもの,文化財にしても,文書にしても,歴史改ざんをしない。あるがままに次世代に伝えていく。そういう意味では,「何も足さない,何も引かない」ということが,我々に残された使命だと思うのです。それが物理的な保存であっても,デジタルな保存であっても,その保存ということに対して責任を持つことが大事だと思っています。

 それから,先ほど価値をとらえる能力と言いましたが,イギリスでは2000年に図書館行政,博物館行政,文書館行政が一つのセクションになったのです。縦割り行政ではなく,文化遺産省の下の組織であるMGC(Museums and Galleries Commission)というものが,Re:sourceという,文化資源というような意味での新しい組織になりました。そこは,文書にしろ,図書にしろ,文化財にしろ,一つの資源としてとらえようという考え方で,組織も改編しています。東大だったでしょうか,文化資源学ということをされている大学もあると聞いていますが,そういう意味では,文化資源情報学ということが必要になってくるだろうと思います。

 あとは,そういう人たちの働き場所があるのかという話がありましたが,これからは,博物館,美術館はそう多くはできていかないでしょうし,歴史ある企業,30年か50年ぐらいの企業は日本にたくさんありますから,そういうところでアーキビストにしろ,キュレーターにしろ,社史編纂をするライブラリアンということになるのだと思います。

 最後に一言ですが,やはり30年先ぐらいを見るような仕事でやらないと,こういう成果は出てこないのではないかと思います。目録一つつくるのでも,独立行政法人になって,中期,長期の年次計画を出すということになると,ある種の強制力を持って,未整理の資料を1年目は1万点,2年目は2万点,3年目は3万点,目録化しなさいというお上からの圧力があるので,仕方なしなしやっているのです。そのような強制力があって,数値目標があって,その数値目標に対してどれだけ達成したかということを判断しないと,評価はできないと思うのです。その積み重ねが,日本の文化資源力になると思います。

 ところが,今やっている文化庁にしろ,総務省にしろ,世界戦略とは言うものの,30年先のことまで考えてやっているかというと,私にはそうは思えません。不景気だから,そこに予算を投入しようという短絡的なことでやられては,やはり育たないと思います。そういう意味では,ここだけの世界ではなく,国全体,大学全体,それからメーカーも,すべてを入れた総合文化資源戦略をつくらなければ,こういう職制にまで結びついていかないのではないかと思います。ちょっと過ぎたことを言って,申し訳ございませんでした。

波多野
  今,資源という話が出ました。美術館というのは普通,展覧会を見に行く場というように見えるわけですが,実は大変な美術情報資源の場であるのです。オリジナル作品があり,それが中核になるのですが,その周辺に写真があり,文献資料があり,ドキュメントがあり,アーカイブがある。そのように考えると,一般の市民が目にするものはほんの一部なのです。豊かな美術情報資源……。数字で表すのは非常に難しいと思うのですが,100の潜在資源があったとき,我々はこの現代社会で美術館をどれだけ使いこなしているか。逆に言えば,美術館がどれだけ市民に潜在情報資源を出しているかということなのです。恐らく10%とか20%とか,そのぐらいのものしか使われていない。あとは,悪い言葉で言えば,隠している,隠されているわけです。

 それは整理しなければ出せません。保存の処置をしなければ出せないので,そういうことをきちんとやった上で,場合によってはデジタル化し,それをセンター,ライブラリー,資料コーナーなど,いろいろな形で出していく。あるいは,展覧会,常設展示等に合わせて,これは教育普及との連携ということになるのでしょうが,いろいろな形で提供していく。ですから,作品を見る場,鑑賞する場ということだけではなく,「美術館は図書館」「美術館は学校」「美術館は大学」でもあるのです。あるいは,美術館にはいくらでも出版する種がありますので,「美術館は出版社」になり得る。

 今,デジタルアーカイブでビジネスをするところも増えています。その典型的なものは,フランスのRMN(フランス美術館連合)です。これは一つの独立行政法人的なものなのですが,国立の美術館を糾合して,そこでのカタログ出版活動,展覧会企画,グッズの販売,デジタルデータの頒布など国家を挙げてやっているのです。今,大変な利益が出ています。そのようなことを日本で,単独でやるか,独立行政法人の国立美術館でやるか,いろいろな形があると思いますが,潜在的な美術情報資源を活用する。それを一つの経営感覚で,市民に役立つようにという理念のもとにやるとすれば,そこに手を差し伸べる中核になるのは,やはり情報資料を専門とした人材であろうと思います。

 先ほどの「侵犯」ということで言えば,美術館を一つの大きな情報資源ととらえて,それを研究するような学問--私は,これが真の意味でのミュゼオロジーだと思うのですが,アーカイブズ学にしろ,図書館情報学にしろ,そういうものが美術館全体,美術情報資源を扱う体系の中に,それこそ侵犯していく。今の美術館は「そんなにおなかは空いていないよ」と言うかもしれませんが,本当は空いているはずなのです。ですから,美術館が雌カマキリで,アーカイブズ学を食っていく,図書館情報学を食っていく。それで,美術情報資源を活かす一つの生命体ができ上がってくれば,そこに情報専門職が活動する場が広がってくる。ビジネスをするわけですから,当然ポストも増えます。そういうところに大きな可能性があると思っています。

中村
 ポスト獲得ということにおいては,ちょっと元気が出てきたところを申し訳ありませんが,私自身は,正職員としてのポスト獲得はこれからますます難しくなっていく時代に入っていくのではないかと思っています。9月27日のLIPERの研究集会でも,とりわけ専門性の高い職ほど,逆にアウトソーシングされやすいポジションであるというお話がありました。現実に,図書館においてはアウトソーシングということが進んでいるという厳しい状況もあります。また,美術館においても,国立や公立ではまだそれほどではないかもしれませんが,私立ではリストラが始まっています。

 そういう状況の中で,正職員になるのは非常に難しいかもしれない。では,ポストが全くないかというと,それはあると思います。私のところにも「アートライブラリアンになりたい」とか,中には,ある専門図書館に勤めていて,そこをやめて,これからアメリカの美術館に研修を受けに行くのだけれど,日本に帰ってきて,アートライブラリアンのような職を求めたいという方が相談に見えることもあります。そのときにお話しするのは,今の博物館・美術館の厳しい雇用状況を考えると,正職員になるのは非常に難しいだろう。けれども非常勤としてならポストはあるのではないかとお話しています。しかし,今の日本では雇用のシステムが変わっているのですから,それこそ公務員でなければ,一たん組織に入ったらあとは退職するまで安泰だという職業は,恐らくどこにもないでしょう。だからこそ,より専門性の高い知識や技術を身につける必要があるのだと思います。

 それから,求められる技能ということでは,もちろん図書館情報学的な技能全般に加えて,やはりマネジメント能力がこれからは必要だと思いますし,コミュニケーション能力も 大事だと思います。たとえ組織の一部であったとしても,あたかも自分自身が運営者である,責任者であるという発想と責任感を持って仕事をしていく。そういう姿勢がなければ,これからは生き残っていけないでしょう。やはりマネジメントということを学ぶ必要があるのではないかと思います。

 社会的な責任ということですが,私はライブラリアンとして美術館におりますので,ライブラリを守るという使命感が必要だと自分で思います。後輩たちのためにも,ライブラリを頑張って続けていく努力をしていかなければと思います。そのときに,評価ということがやはり一番大事だろうと思いますが,ライブラリは,ともすれば単なる箱,書棚だと思われがちなのです。そうではない,ライブラリは機能なのだということが認知されなければならないと思います。先ほど水嶋さんがドキュメンタリストの話をされて,こういう情報が欲しい,ああいう情報が欲しいというとき,すぐにそれが出てくる,ということをおっしゃいました。欲しい情報がすぐに手配できるというフットワークのよさ。同時に,自分たちの資料コレクションを豊かにし,環境を整える。そのような努力があってこそ,美術館におけるライブラリという位置が保てるのではないかと思います。

水谷
 どうもありがとうございました。パネルディスカッションの最初に,図書館情報学と関連諸学の関係について話をしました。本来であれば,4人のパネリスト間での学の相互の関係についても話をしたかったのですが,質疑応答を少し行いたいと思います。全体にわたって,ご質問,ご意見等がありましたら,お願いしたいと思います。

質問1
 東京大学の根本です。パネリストの方にご質問したいのは,今日のお話で,水谷さんが「連続と侵犯」という言い方をされたのですが,ある種の情報専門職にアーキビストの領域,アーカイブズの領域,あるいは博物館でも情報を扱うような領域,それから図書館情報学の領域が収斂していくようなイメージが少しあったと思うのです。波多野さんがおっしゃったドキュメンテーション,ドキュメンタリスト,その部分が一つのカギだと思うのです。つまり,従来の図書館は図書や雑誌というモノとして扱っていて,内部の情報になかなか踏み込まなかったのですが,そこに含まれている情報,あるいはもっと細かい単位で分析するということで,新たな情報というものへのアプローチがだんだん出てきた。それが図書館学から図書館情報学になった一つの鍵かと思います。

 その辺のところで,収れんしていくのか,それとも……。そもそもアーカイブズとミュージアムとライブラリは目的が違うのだろう。ですから,同じような情報があっても,その提供の仕方など,違うところがあるのではないか。つまり,差異というものがあるのではないかと感じるのですが,その辺について,どういう見通しをお持ちなのか,お伺いできればと思いました。

水谷
 差異については議論の底流にあったと思いますが,問題は,差異があったとしても,ある収斂の可能性は,根本先生が言われるように,確かに一つの大きなポイントだと思います。例えば波多野さん,いかがでしょうか。私が聞いていても,ドキュマンタシオンとアーカイブとの間に架け橋があるのかどうか見えなかったのですが。

波多野
 仕事の実態としては,ドキュメンタリストの領分,ライブラリアンの領分,アーキビストの領分というのは確かに違っています。ですから,ルーヴル美術館などに行っても,ドキュメンタリストはドキュメンタリストの部屋でやっています。それとライブラリアンはほとんど没交渉です。アーキビストはライブラリアンと一緒の組織になっていますが,組織的に一緒であるだけであって,職員間の交流などはほとんどない。ですから,別は別です。

 では,収斂するのはどういうところか。それがドキュメンタリスト,ドキュマンタシオンというものになるかというと,必ずしもそうではなく,ドキュメンタリストというのはどちらかというと,非常に有効な,生産性のある部門なのですが,位置づけからすれば,アシスタント的な実務者が担当する場所だとも言えようかと思います。しかしながら,ドキュメンタリストが図版を集め,小さな記事を集め,ということで集積されたものが展覧会の企画に役立ち,分厚い,内容のある展覧会カタログとして結実する。そういう話をフランス美術史をやっていらっしゃる木村三郎先生もよくされます。そういう意味では,一般にライブラリーは,娯楽,教養など,広く資料を提供しています。しかし,それを何に使うのか。ライブラリーで得た知識がどのように生産にまわされるのか,というところがないということが,今,ビジネス図書館などとして言われていることだろうと思うのです。時間と労力をかけて蓄積したライブラリー資料が何に生きてくるのか。

 そういうことを考えると,ドキュマンタシオンというのは,日々,1枚、2枚と図版が増える。例えば私が外国に行って,国立西洋美術館のチラシを持っていきますと,目の前でチョキチョキと切って,その図版をファイルに入れる。1日に何枚かは知りませんが,日々の積み重ねで,何万,何百万というファイルがオルセーでもルーヴルでも形成されているわけです。例えば,あるアーティストの展覧会をしようというときにそれを開く。そうするとさまざまな文献や図版が出てくる。それがカタログとなり,目に見える形で生きてくる。そういうものを用意するドキュメンタリストはものすごく重宝されています。それを養成するところもあります。しかしながら,全体的に美術館の情報資源をどう運用するかというところで,それが扇の要になるということは今のところないだろうと思います。

 ですから,アーカイブズ学なのか,図書館情報学なのか,ミュゼオロジーなのかというとき,それをどこに収れんさせるかということはなかなか難しい。ただ,あるひとつの方法論ということではないように思うのです。少なくとも,美術館という現場に立てば,本を扱わなければならないでしょう。雑誌も扱わなければならない。チョキチョキと切り抜きもしなければならない。アーカイブもあるのです。すべてがあるのですから,すべての方法論を責任者として管理する人間がわきまえる。そして,この人は図書館的な手法に向いているから図書館,この人はアーカイブの知識を身につけてきたから,特にアーカイブの仕事をしてもらうというような分担をする。方法論としてはさまざまなものが混在していていい。何か一つのやり方に収斂しなければならないという問題ではないと,私は思います。

水嶋
 博物館は博物館,図書館は図書館,文書館は文書館,独自の方法はあると思うのですが,少なくとも情報レベルでは,一言で何という職制なのかはわかりませんが,インフォメーション・マネージャーというような形だと思います。インターネットや電子情報レベルになれば,収斂という言い方がいいのかどうかはわかりませんが,そうなるのではないかと思います。実際にそういうことができるかということで,今,一生懸命ICOMの国際ドキュメンテーション委員会(CIDOC)が,CRM(Conceptual Reference Model)というものを研究しています。あるデータベースと別のデータベースを同じ概念レベルで共有化するということを一生懸命やっています。それが実装レベルのアプリケーションソフトか何かになれば,ある館が持っているものが違う館に応用できる。そういうレベルになれば,インフォメーション・マネージャーぐらいの一つの職制として考えられるのではないかと思います。

 横道にそれますが,今年の3月にイギリスに行ったとき,文化省など,いろいろ話を聞きますと,将来的には館種が消えるというのです。自然史博物館とか美術館とか歴史博物館ということさえもなくなってしまうのです。2000年に行ったときには,先ほど文書館,図書館が一つの行政体になると言いましたが,今年に行ったときには,館種も消えるとはっきり言われました。それは,地域の持っている大きな博物館,それは美術館でも自然史でもいいのですが,そこが小さな博物館を吸収合併する。それを〔ハブ?〕と言っています。ルネッサンス計画などと言っていますが,再編成するのです。そういう意味では,博物館でさえ,館種がなくなる時代ですので,文書館の壁もなくなり,一つの大きなメディア,あるいは知識・情報資源になっていくのではないかと思います。日本も,文部科学省の人も行っていましたので,そういう考え方に政策誘導されていけば,5年先か10年先かには,パイは一つですから,予算をどのように配分するかということになれば,そういうことをやらざるを得なくなるので,やがて館種という考え方さえもなくなるのではないかと思います。

質問2
 メディア教育開発センターの三輪です。先ほど水嶋先生がおっしゃっていたCIDOCとCRMのレファレンスモデルということなのですが,つまり,これはあらゆるオブジェクト,美術品であろうが,教材であろうが,あるいは,私は教育関係を扱っているので,そういう発想になるのですが,授業そのものであろうが,あるいは,会社でいえば,何かのプロジェクトであろうが,あらゆるオブジェクトを共通のメタデータというか,プロファイルで表現しようという試みなのでしょうか。もう少し詳しく教えていただければと思います。

水嶋
 日本はそれほどでもないのですが,外国では目録がきちんと整備されているので,それが電子情報としてすぐに乗って,インターネットに公開されていくわけですが,その目録を検索しやすいようにするためには,共通の基盤をそろえておかなければなりません。ところが,既存のデータベースを新たにつくり直すには,人的にも時間的にも予算的にも大変なので,あるルールを決める。それは今,100幾つかと言っていますが,ルールを決めさえすれば,情報の共有化は可能であるということになっています。

 先ほどの補足をすると,例えば17世紀,18世紀ぐらいの,博物学の世界である植物,きれいな版画や挿絵,百科事典などの植物画は,今は自然史博物館の中に収まっていますが,ある国の美術館がそれを美術作品として借りたいという場合は,そこで自然史博物館だ,美術館だという枠を超えて資料が移動するわけです。そうすると,資料が移動したときに,目録情報や資料の記述情報を新たに生み出すよりも,オリジナルを所蔵していた館から情報を得れば,非常に効率的です。そういう意味では,概念レベルで,一定のルールを決めておくということがあります。

水谷
 CIDOC/CRMについては,アート・ドキュメンテーション叢書の第1巻に出ていますので,ご参照ください。