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エビデンスベーストアプローチによる図書館情報学研究の確立
第5回ワークショップ
「図書館史研究にとってエビデンスとは何か?」

議事録

開会の辞 | 発表T(小黒:前半) | 発表T(小黒:後半) | 発表U(三浦) | 発表V(吉田) | 質疑応答

::: 質疑応答 :::

池内
 お三方とも大変興味深いお話をしていただいたと私は実感しております。  さて、残り15分程度しかございませんけれども、会場のほうから小黒先生、三浦先生、吉田先生にご質問等がございましたらお願いしたいと思いますが、いかがでしょうか。

倉田慶應義塾大学
 慶應義塾大学の倉田と申します。大変興味深く聞かせていただきました。一つ小黒先生の最後のほうで、アーカイブの未整備とオーラルヒストリーというところだったと思うのですが、要するにある視点がないとやはりオーラルヒストリーというか、そういうインタビューを記録として残すのはかなり難しいということで、よかったのかなというのと、もう一つは単なる記録としてオーラルヒストリーを残すというのは、やはりあまり意味のないことなのか。つまり、割と単純な素人考えですけれども、やはり亡くなられてしまうわけで、聞けるときに聞いておくというのはあるのかなと一瞬思ったのですが、お聞きしていると視点なしにただ漠然と話を聞いていても、意味がないのかなというのも一方で思い、ただアーカイブとしてそういうものが残っているというのは、後々の研究の素材にはなるのかなというところで、その辺はどういうふうに考えるのかというのが1点お聞きしたかったところです。

小黒
 鶏が先か卵が先かという感じになると思いますが、やはり一定程度使えるような記録を残すためには、それなりの視点がないと引き出せないと思います。ただどうですかと言われても、多くの場合、「はあ」という感じになってくるわけで、ある程度ちゃんとしたボールを投げれば、それにまたボールが返ってくることになると思いますので、それなりの下準備はしたほうがいい。

倉田
 吉田先生のエビデンスのところで、段階を経るに従って困難になるということは、論文執筆が一番大変だという意味でよろしいんですか。

吉田
 大変というのは、他者に説明するときの困難さという意味においてです。収集のときにはここの文書をこれだけ調べましたときちんと言えますよね。

倉田
 そういう意味なんですね。

吉田
 他者に伝えることが研究の段階を経るにしたがって難しくなっていくという。

倉田
 伝えにくさが出てくると。現代史というのはどういう位置づけになるんでしょうか。つまり、どこからを歴史研究とおっしゃっておられるんでしょうか。

池内
 では、三浦先生お願いします。

三浦
 どうなんでしょうか。まだ生き証人の方がいらっしゃる場合であっても、私の場合は、日本の図書館史の場合にはもう60年代ぐらいの事象については、先ほど小黒先生から『中小レポート』のことはもう歴史的な事象であるというご説明がありましたけれども、それは歴史研究の対象としていいのだと思います。ただ、現代史といった場合には、もう少し広くとって、20〜30年前の事柄でもやはりそれを歴史として見る解釈というものはあると考えています。
 ただ、自分はそういうふうにはくみせずに、とりあえずある転換点になったような事柄、日本の場合には戦後占領期が大きいと思うのですが、そこまではとりあえず歴史対象としていいのではないかと思っています。お答えになっているかどうか、ちょっと微妙ですけれども。

池内
 よろしいでしょうか。
 ほかにどなたかいらっしゃいますでしょうか。

上田慶應義塾大学
 慶應大学の上田です。本当に歴史研究早わかりというか、私にとっては大変ありがたいお話をお伺いしました。三浦先生のものはこのまま、研究ノートでも何でもいいですからどこかにお出しいただいて、せっかくデータをこれだけ分析なさったのですから、発表していただきたいと思います。それはコメントです。
 最初の小黒先生のアーカイブのことですけれども、アーカイブがないためにということだったのですが、確かに組織的なアーカイブというものが日本の中でないわけです。先ほどの下伊那の例で、お探しになっている間に資料が出てきたという例をお話しになりましたよね。つまり、実際は資料はあるんだけれども、それが埋もれていて組織化されていないために出てこないと。日本の場合は確かに歴史的なアーカイブはないとは思いますが、実際はその蓄積はあちこちにあると私は認識しています。ただ、探す努力も含めてしなければいけない状況というふうに考えるべきなのか、やはりアーカイブがないから大変だと考えるべきなのかというところが、どうとらえればいいのだろうと思いました。

小黒
 今おっしゃるとおりだと思います。日本の場合、ヨーロッパなどと違いまして、比較的何の努力もしないでも、これまで残ってきたというのがあると思います。それがゆえに、本当に努力をしていなかった。(笑)
 日本の場合、よその国とお互い徹底的に破壊するまでというような戦争もない状態でしたので、どこかの家の土蔵をあければ、何百年前の古文書が出てきても別に不思議ではない国なんですね。ですから、そういったところをしっかりとこれから調査をしていけば、図書館とはちょっと離れますけれども、さまざまなことがわかってくる可能性は、日本の場合まだまだあると思います。そういう点でいきますと、やはりこれはちゃんとしたアーカイビングが大きな問題として日本の場合あると思います。これは高山(正也)先生あたりに頑張っていただかなければいけないことなのかもしれませんけれども。
 漫然と残していくのではなくて、これからはむしろしっかりとした意識を持って残していく時代に来ているわけで、図書館のような機関もその機関がどういうふうに動いていたのかというような記録をしっかりとつくり、そして残していくというシステムを構築していかないと、歴史研究のためにということではなくて、いろいろな点で不都合があるのではないでしょうか。

上田
 あと吉田先生に二つほどお伺いしたいんですけれども、一つは研究枠組みと分析概念という二つが必要だというのはわかるのですが、この場合、研究枠組みとしてカルチュラルスタディーズという話と、ここで挙げられた分析概念というのは実はつながっているものではないかという感じがします。アメリカの場合、こういう分析概念が有効であったとしても、あるいはカルチュラルスタディーズ的な研究枠組みが有効であったとしても、果たして日本でこれはできるんでしょうかという疑問を持ちます。つまり、日本の図書館史あるいは読書史でもいいし、歴史全体でもいいのですが、このカルチュラルスタディーズの研究枠組み、あるいはここにあるような分析概念を用いた分析というのは、なし得るのでしょうか。

吉田
 基本的にはなし得ると考えていますけれども、今のところまだ……。

上田
 そういうような成果はないように思えるのですが。

吉田
 そうですね。ただ、先ほども申し上げたとおり、カルチュラルスタディーズと言わないで、そういうふうな視点で研究を行っているということですね。やはり図書館情報学以外の分野で非常に顕著で、教育学史あるいは社会学などで非常にはっきりと見えるのですけれども、いずれにせよ1990年以降の図書館の歴史的研究というのは日本の図書館であっても、何らかのこういう批判的な視点というのは必ずあると思います。それはそれまでの、いわゆる単館史といいますか、図書館で起きたいろいろな事象を時系列的にきちんと整理して、詳しく書いていくという従来型の研究プラスアルファの部分が出てきたのではないかと思います。ただ、あまり明確ではないということです。

上田
 もう一点は、スライドのほうの「データ整理」というところの一番下にあります、「膨大な文書から、適切な資料を選択するスキル」です。正直言って、このスキルはどうやったら身につくのか。つまり、これはきっと経験的には身につくのだろうと思いますが、ある種の言語化、マニュアル化しないとスキルとは言えないと思います。そういうものはあるんですか。

吉田
 今、先生がおっしゃって私も気づいたのですけれども、これはスキルというよりは、センスと言いかえるべきものです。(笑)また小熊英二氏の話になりますけれども、彼の研究などは読者側が浮かび上がったストーリーをそのまま受け取ることができるような鮮やかな文献の取捨選択の仕方をしています。マニュアル化できるようなスキルにはなっていません。それは一番最初の査読の自動化システムという話と関連してくるのですけれども、マニュアル化はできません。それは一人一人の研究者のオリジナリティーが出せるところでもあると思います。

池内
 ほかにどなたかございますか。

汐ア慶應義塾大学
 慶應義塾大学の汐アです。私もちょっと足を突っ込んでいまして、今日はお三方の発表を非常におもしろく聞かせていただきました。オーラルヒストリーは本当に非常に難しいと思うんですね。実際に私もいろいろな方にインタビューしてお話を聞いて、小黒先生にお伺いしたいのは、裏づけになる資料が整っていることが必要だと。それを読み込んで、それとオーラルで得た情報というものをすり合わせていくというか。ただ、例えば著書、レポートのインタビュイーの方にお話を聞いたときには、何となく質問の答えが見えていたと小黒先生はおっしゃるんですけれど、私はどちらかというと、もともと文献に書かれたことは活字になった時点で、少し整合性をとらせてきれいに持っていくというのがあると思うんですね。オーラルというのは、そこではない視点をまた複数の人の視点から開かせてくれるとか、さっき三浦先生のお話にもありましたけれども、トップダウンではなくて、マイナーな、下から見たときの視点で見えてくるものはまた違うのではないかということをおっしゃっていたので、もともとある文献を読み込むことと、オーラルで得たインタビューの位置づけというものをどういうふうに考えていくのかがすごく難しいと思いました。そのことについてお伺いしたいのが1点です。
 それから、私は自動サービスについていろいろ調べさせていただいたんですが、さっき小黒先生がおっしゃった語り得ないことがあるというのの逆に、語り過ぎてしまう方もいらっしゃるんですよ。そんなことを言われてもと。これはまた研究者の倫理にかかわってくると思うのですが、すごく個人的な感情も入っていますし、その人にとっては真実だと思うし、すごく貴重だとは思うんですけれども、すごくおもしろいお話とか、すごく際どいお話とかのいただいたデータを実はたくさん持っている。その中から自分でまた構成していく、それもまたセンスだと思うのですが、あとまたいま怖くてあけられないのですが手紙の山が1箱あるとか、そういうものの扱いをオーラルヒストリーと歴史研究についてどういうふうにお考えなのか。
 それで、私が例えば既にあるものと聞き得た情報とあわせて一つのストーリーをまたつくっていくわけですけれど、そのでき上がったものに対するエビデンスの評価はどうなるのかなというのもすごく自分でも疑問に思っています。そういうふうな投げかけですけれども、今のことに関してお考えがあったら、それぞれお伺いしたいと思います。

小黒
 いろいろあるんですね。まず一つ目ですけれども、確かに文献では全然うかがえなかったようなことがインタビューの中からポロリと出てくるような場合ももちろんありました。その一方で、申し上げたように、やはり活字になったものの力が強くて、そちらで上書きされてしまう形で、こうなっていますけれどもどうですか、いや、そうですというふうになってしまうことのほうが案外多かったということです。
 二つ目ですけれども、先ほど三浦先生が言われたように、どこまでが歴史研究かというところになるのかもしれませんが、やはりある程度の、特にプライバシーにかかわるようなことがかかわってきた場合は、ほこりがかぶるぐらいの状態になって初めて使えることになる部分もあると思います。
 国立国会図書館などが政治家などにインタビューしているわけですけれども、いつまではこれは公開しないというようなことでやっています。そういった公開に当たっての条件などをつけたりということも必要な場合があるでしょうね。

池内
 よろしいでしょうか。大変残念ですけれども5時になってしまいましたので、本日はこれで終わりにさせていただきたいと思います。
 最後に発表者の皆さんに拍手をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
 次回は9月29日に「フォーカスグループインタビュー」ということで、第6回ワークショップを開催させていただきたいと思います。
 皆さん本日はどうもありがとうございました。

― 了 ―

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